2023年5月25日。初めての青森でした。
出発の朝、搭乗口でこう投稿しています。「みちのく2人旅。青森県初上陸なるか。多分、これで全県制覇のはず。赤頭の国、つがるへ。」——ハッシュタグには、すでに #火怨 が入っていました。機内のお供が、この本だったのです。

青森空港からはツアーのバスで、東北道を十和田湖へ向かいます。昼すぎ、前方に緑の出口案内が見えました。13時19分。写真が残っています。

黒石。
なんでもない出口案内です。十和田湖へは黒石ICで降りて国道102号に入るのですから、そこに出ていて当たり前の表示でした。
でも、そのとき頭に浮かんだのは、行き先の湖のことではありませんでした。
モレ、という男のことでした。
「黒石の族」の軍師
その少し前に、高橋克彦『火怨 北の燿星アテルイ』を読んでいました。
平安のはじめ、東北の蝦夷(えみし)が朝廷の軍と戦った——その40年ほどの戦争を、蝦夷の側から書いた小説です。1999年の作品で、第34回吉川英治文学賞を受けています。
主人公は蝦夷の長・アテルイ(阿弖流為)。そしてその右腕として出てくるのが、母礼(モレ)という男です。猛々しいアテルイとは対照的に、母礼は智謀の人として描かれます。そして小説の中で、その出身が「黒石の族」とされているのです。
読んだのはこの2冊です。上下巻あわせて1,000ページ近くありますが、止まりません。旅の前に読むと、東北の景色の見え方が変わります。
ただし、ここは正確に書いておきます。史実の母礼は「盤具公母礼(ばんぐのきみもれ)」と呼ばれ、出身地は分かっていません。「黒石の族」は小説の中の設定です。
しかも、アテルイたちが戦った舞台は胆沢(いさわ)——現在の岩手県奥州市のあたりとされています。いま自分が通っている青森県黒石市とは、200km以上離れています。小説の「黒石」がこの黒石を指しているのかどうか、正直なところ分かりません。
それでも——というのが、この記事です。高速道路の出口案内に同じ地名が出てくれば、読んだばかりの人物の顔を思い浮かべてしまう。そこから、この旅は少し面白くなりました。
何十年も前に読んだ話ではありません。読んだばかりの本の中にいた男が、地名になって窓の外を通り過ぎていった——そんな感覚でした。
その日の午後、湖のほとりで
バスは黒石ICを降り、国道102号で山へ入っていきます。発荷峠の展望台から十和田湖を見下ろしたのが14時52分——標識から1時間半後です。投稿は「絶景 いい天気。」の一行でした。

午後は湖畔の休屋を歩き、杉並木の参道の先にある十和田神社に立ち寄りました。「黒石」の二文字を見た、その日の午後の話です。

参道を歩いて、社殿の前の由緒書きを読んでいたときです。そこにこう書かれていました。
大同2年(807年)、坂上田村麻呂が創建したと伝えられる
坂上田村麻呂。
読んでいた小説の、相手役の名前でした。
小説の田村麻呂は、憎むべき敵ではなかった
『火怨』を読んで意外だったのは、坂上田村麻呂の描かれ方でした。
蝦夷の側から書かれた小説なのだから、田村麻呂は憎むべき侵略者として出てくるのだろう——そう思って読み始めました。ところが違いました。小説の中の田村麻呂は、アテルイと互いを認め合う、まっすぐな武人として書かれています。
史実の方でも、延暦21年(802年)にアテルイと母礼が降伏したあと、二人を伴って都へ上った田村麻呂は、助命を願い出たと伝えられています。この二人を故郷へ帰し、仲間を説得させたほうがよい、という趣旨だったといいます。けれども公卿たちは容れませんでした。
「征夷大将軍」を、初めてまともに読んだ
白状すると、坂上田村麻呂について知っていたのは、教科書の1行か2行だけでした。「征夷大将軍になった」。テストのために覚えた、それだけの人でした。
その「征夷大将軍」も、頼朝や家康の肩書きとして覚えていました。鎌倉から江戸まで、武士が政権を取るときの代名詞になった称号です。「幕府を開くための資格」くらいの認識で、言葉そのものの意味を考えたことは一度もありませんでした。
でも、この旅のあとで字面をまともに読むと——「夷(えみし)を征する大将軍」。もともとは、蝦夷と戦うために置かれた臨時の軍職なのです。厳密には最初にこの職に就いたのは大伴弟麻呂で、田村麻呂はその次ですが、実際に蝦夷との戦いを終わらせ、この肩書きとともに歴史に残ったのは田村麻呂でした。
つまり、のちに700年ものあいだ武士の頂点を意味することになるこの言葉の出発点に、アテルイたちとの戦争がある。教科書の1行の裏に、こういう話が畳まれていたのだと、この歳になって初めて知りました。知らずに覚えていた言葉を、旅先で読み直す——これも本を持って旅に出る効用だと思います。
杉並木を戻りながら、考えていたこと
お参りを済ませて、来た参道を戻ります。杉が高くて、昼でも薄暗い。歩きながら考えていたのは、湖のことではありませんでした。
田村麻呂は、ほんとうにここに来たのかな。
伝承ですから、確かめようがありません。でも、もし来ていたのなら。1200年前に、この同じ木立ちの下を、あの人が歩いたことになります。湖が荒れて渡れず、祠を建てて祈り、イカダを組んで渡った——そういう話が、この神社には残っています。
そしてもうひとつ、小説の冒頭あたりで読んだ記憶のあることを、そこで思い出していました。
陸奥に、金が出たのです。
東北は「金の出る土地」になった
天平21年(749年)、陸奥国小田郡——いまの宮城県涌谷町のあたりで、日本で初めて金が産出しました。陸奥国守の百済王敬福(くだらのこにきし・きょうふく)が、黄金900両(およそ13kg)を都へ献上しています。
タイミングが劇的でした。ちょうど東大寺の大仏の鋳造にめどが立ちながら、表面に貼る金がまったく足りていなかったのです。朝廷はこの知らせを大赦と改元で祝いました。万葉集には、この産金を寿いだ大伴家持の歌が残っています。
すめろきの御代栄えむと東なる陸奥山に黄金花咲く
万葉集 大伴家持
美しい歌です。でも、裏を返せばこういうことでもあります。
この日から東北は、都にとって「金の出る土地」になった。
金と、戦の年表
| 年 | できごと |
|---|---|
| 749年 | 陸奥国小田郡で日本初の産金。黄金900両を献上、東大寺大仏の鍍金に使われる |
| 774年 | 朝廷と蝦夷の戦いが始まる(のちに三十八年戦争と呼ばれる) |
| 789年 | 巣伏の戦い。北上川のほとりで、アテルイたちが朝廷の軍を破る |
| 797年 | 坂上田村麻呂が征夷大将軍になる |
| 802年 | アテルイと母礼が降伏。都へ送られ、河内国で斬られる |
| 807年 | 十和田神社が創建されたと伝わる年(田村麻呂創建の伝承) |
金が出てから、40年後に北上川で朝廷の軍が大敗しています。その13年後に、二人は都で斬られました。
もし、金が出ていなかったら
杉並木を歩きながら考えていたのは、そこでした。
もし、この地に金が出ていなかったら。
都はここまで本気で北を取りに来たでしょうか。アテルイも母礼も、名前が記録に残るような戦いをせずに済んで、もっとひっそりとした人生を送れたんじゃないだろうか。
もちろん、これは歴史学の話ではありません。蝦夷との戦いの理由を金ひとつに求めるのは乱暴でしょう。ただ、杉の下を歩きながら思ったのは、そういうことでした。
名前が歴史に残るというのは、それだけのことが、その人の身に起きたということでもあります。

12月、こんどは黒石の町に泊まった
この年の12月、青森を再訪しました。泊まったのは青荷温泉——電気の通っていない、ランプだけの宿です。そしてこの宿があるのが、ほかでもない黒石市でした。5月に出口案内で見た二文字の土地に、こんどは泊まったわけです。

そして宿に着くと、売店の棚に黒石市のパンフレットが積まれていました。表紙は筆文字で、大きく「黒石」。よく見るとこの二文字、英語の「BLACK STONE」としても読めるように書かれています(アンビグラムというそうです)。5月に出口案内で見た二文字と、宿でもう一度出会ったわけです。思わず写真に撮りました。半年経っても、この二文字はわたしの中でただの地名ではなくなっていた——撮った写真が残っているのが、その証拠です。

この日泊まった宿の話は、別に書いています。
→ 青荷温泉ランプの宿 宿泊記|電気なし・携帯圏外の一夜と4つの湯
二人の最期の場所は、家の近くだった
もうひとつ、この旅で気づいたことがあります。
アテルイと母礼が斬られたのは河内国——現在の大阪府枚方市牧野のあたりと伝えられています。首塚とされる場所があります。そして京都・清水寺には、1994年に岩手県の有志によって建てられた顕彰碑があります。その清水寺もまた、田村麻呂ゆかりの寺です。
どちらも、関西からなら1時間ほどの場所です。
青森まで行ってその名前に出会ったのに、ずっと近いところにある二人の最期の場所には、まだ行っていない。記事を書きながら、それに気づきました。近いうちに、両方とも行ってこようと思っています。
この旅の他の記事
2023年5月(十和田湖・奥入瀬・白神)
2023年12月(不老ふ死温泉・青荷温泉・弘前)
まとめ
- 十和田湖へ向かう東北道で見た「黒石」の出口案内から、『火怨』の母礼=「黒石の族」を思い出した(小説の設定。史実の出自は不明)
- その7か月前に歩いた十和田神社には、大同2年(807年)坂上田村麻呂創建の伝承がある
- 天平21年(749年)、陸奥国小田郡で日本初の産金。黄金900両が東大寺大仏の鍍金に使われた
- その40年後に巣伏の戦い、53年後にアテルイと母礼の処刑
- 処刑の地とされる枚方も、顕彰碑のある清水寺も、関西に住んでいれば近い。まだ行っていない
本を読んでから行くと、同じ景色がまるで違って見えます。この旅がまさにそうでした。ただの地名の標識が、千年前の男の名前になって飛び込んでくる。そんなことが起きるので、旅の前の一冊は侮れません。
この旅で泊まった宿
2023年12月、JTB旅物語のツアーで青森を回ったときに泊まった2軒です。どちらも宿泊記を書いています。
旅の前に読んでおくと、景色が変わります
この記事に書いたことは、ぜんぶ、この本を読んでいたから起きたことです。読んでいなければ「黒石」はただの地名で、由緒書きの坂上田村麻呂もただの名前でした。
東北へ行く予定のある方は、行く前に読むことを強くおすすめします。同じ道を通っても、見えるものが確実に増えます。
参考にした資料
- 十和田神社 由緒書き・青森県文化観光推進機構の解説板(現地で撮影、2023年5月)
- 高橋克彦『火怨 北の燿星アテルイ』(講談社、1999年/第34回吉川英治文学賞)
- 涌谷町「わが町涌谷の歴史~その3 奈良の大仏と涌谷の金」
- 黄金山産金遺跡(Wikipedia)
※ 十和田神社の田村麻呂創建、母礼の出身地はいずれも「伝わる話」です。確かめられた史実と、伝承・小説の設定は分けて書きました。

